東京慈恵会医科大学の130年 歴史 - 学校法人慈恵大学
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Archived: 2026-04-23 17:18
東京慈恵会医科大学の130年 歴史 - 学校法人慈恵大学
東京慈恵会医科大学の130年 歴史
ホーム
法人について
本学の源流
東京慈恵会医科大学の130年 歴史
1. 建学
2. 慈恵医院の設立
3. 東京慈恵会の誕生
4. 震災からの復興
5. 終戦を乗り越えて
6. 樋口時代
7. 創立百年
8. 看護学科開学
9. 130年目を迎えて
1. 建学 明治14年(1881)
イギリス医学に範をとり日本医学界の改革を目指す
英国留学時代の高木(明治8年頃)
明治14年(1881)5月1日、高木兼寛は京橋区鎗屋町十一番地(現中央区銀座4 丁目4 -1)に成医会講習所を開設した。松山棟庵が創設した東京医学会社の2階の大広間を借りての船出である。
この成医会講習所の基盤となったのが、同年1月に、高木と松山が18名の医師とともに発足させた成医会である。成医会は日本の貧弱な医療環境の改善を目指して立ち上げられた学術団体であり、医師を育てる成医会講習所もそうした活動の一環として始まったのである。
一方、成医会講習所が患者中心の医師を育成するためには、絶えず患者と接することができる病院が不可欠だった。その時、高木の念頭にあったのは、貧しい人々が診療を受けることができる施療病院であった。
皇室・貴族の支援を得て発展した有志共立東京病院
施療病院の名称を「有志共立東京病院」に決定した高木らは、早速、有志者からの設立資金を募る活動を開始。明治14年(1881)11月には、すでに廃止となっていた芝・愛宕町の旧東京府病院跡の借り受けが決まったが、同じ夏に発生したコレラの大流行により借り受けの実施が延期され、明治15年8月10日に、芝公園の天光院という寺院に仮住まいする形で診療を始めている。
明治17年(1884)4月19日には、有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下が総長に就任し、正式に開院式が挙行された。同年6月、翌年11月と皇室・貴族などによる婦人慈善会が、2度にわたって鹿鳴館でバザーを行い、その収益金によって明治18年に日本初の看護婦教育所である「有志共立東京病院看護婦教育所」が設立された。
その後、さらに皇室の協力を得て、病院の経営基盤は強化されていった。
2. 慈恵医院の設立 明治20年(1887)
皇后陛下の御心により「慈恵」の名を冠した病院が誕生
皇后陛下(昭憲皇太后)
明治20年(1887)に入ると、皇室との関係はますます深まり、皇后陛下の御意向によって病院名は4月1日に「東京慈恵医院」と改称された。
これに伴い、幹事長に有栖川宮熾仁(たるひと)親王妃薫子(ただこ)殿下が就任し、公爵夫人毛利安子以下9名が幹事に任命された。
明治20年(1887)5月9日には、皇后陛下のご臨席を仰いで東京慈恵医院の開院式が行われたが、皇后陛下による病院の行啓と御巡視は、その後も昭和に至るまでほぼ毎年行われた。
一方、成医会講習所は海軍医務局学舎との共棲が続いていたが、新たに校舎を手当てして明治23年(1890)8月に「成医学校」の名で最初の生徒募集を行い、翌明治24年9月には、東京慈恵医院に附属する教育機関として「東京慈恵医院医学校」と改称されている。
教育レベルの高さが認められ日本初の私立医学専門学校に
明治20年(1887)には、看護婦教育所も「東京慈恵医院看護婦教育所」と改められ、日本で初めての看護留学生を英国のセント・トーマス病院に留学させ、翌明治21年2 月1日には、記念すべき第1回の卒業生5名を送り出している。
同年2月3日には正式に教育を受けた看護婦による初めての派出看護を実施し、明治24年(1891)の濃尾震災では、皇后陛下から震災患者を救療するため出張するようにご沙汰があり、医師と薬剤師とともに卒業生20名が救護にあたっている。
東京慈恵医院医学校は、明治36年(1903)3月の専門学校令を受けて、我が国初の私立医学専門学校「東京慈恵医院医学専門学校」となる。明治38年(1905)10月には、東京慈恵医院医学専門学校は、本科卒業生が医術開業試験を受けずに医師免許を与えられる文部大臣指定校に認定された。
3. 東京慈恵会の誕生 明治40年(1907)
より充実した診療のために盤石の組織を作る
東京慈恵会会長 徳川家達
明治40年(1907)7月19日、社団法人東京慈恵会の設立が認可され、病院の名称も「東京慈恵会医院」と改められた。東京慈恵会では、これまでの皇室と貴族中心の体制に加えて、会長に徳川宗家16代目の徳川家達(いえさと)、副会長に経済界から渋沢栄一を迎えたことで、皇室・徳川・明治政府・経済界のすべてが結びついた。
東京慈恵会副会長 渋沢栄一
このシナリオを描いたのは、渋沢栄一と穂積陳重(ほづみのぶしげ)である。渋沢栄一夫人の渋沢かね子と長女の穂積歌子、次女の阪谷琴子は以前からの慈恵の支援者であり、その関係から「日本の資本主義の父」である渋沢栄一が慈恵の実業家団体募金委員長となり、渋沢の娘婿で「日本の民法の祖」といわれる穂積陳重が人事構想を練った。そこにはドイツ医学を推進してきた岩佐純らの名前も見られ、立場を超えた顔ぶれだったことがわかる。
新たな体制のもと大きな成長が図られる
東京慈恵会医院医学専門学校風景(明治42年頃)
東京慈恵会の誕生によって、東京慈恵会医院は大きく発展する。渋沢の影響力もあって、寄附・利子・配当金は東京慈恵医院時代の約5倍に達した。明治41年(1908)には悲願であった病院施設を拡充し、外来患者500名、入院患者120名を受け入れられる以前の2倍の規模となった。
また、東京慈恵医院医学専門学校も明治41年5月に「東京慈恵会医院医学専門学校」と校名を新たにするとともに、卒業式には各界の重鎮が出席し、その体制も変化していく。明治44年(1911)には、病理学教室と細菌学教室が完成し、定員150名の予科を併設するなど、この時期に教育機関としてより一層の充実も図られている。
4. 震災からの復興 大正12年(1923)
大学昇格直後に震災に見舞われる
初代学長 金杉英五郎
大正12年(1923)9月1日、大学に昇格したばかりの東京慈恵会医科大学を悲劇が襲った。関東大震災である。被害は、大学施設、大学附属東京病院、東京慈恵会医院、看護婦教育所のすべてに及び、残ったのはコンクリート造りの御大典記念館のみという惨状であった。
大学昇格運動は、大正7年(1918)に公布された大学令を受けて始まった。慈恵でも大正9年の初頭から大学昇格のために寄附金の募集が始められ、同年5月に文部省に対して「財団法人東京慈恵会医科大学」の設立認可を申請した。
大学の設立は翌大正10年(1921)10月に認可され、金杉英五郎が初代学長に就任した。
金杉学長のもと一丸となって復興に取り組む
復興への取り組みは、震災直後から開始された。まず焼け残った御大典記念館を応急修理するとともに、私立海城中学の一部を借りて授業を再開し、臨床の授業は日本赤十字築地臨時病院で行った。
学生たちは「振興学生会」を組織し、同窓会も見舞金を集めて、母校の復興を積極的に支援した。翌大正13年(1924)3月には支援団体として「東京慈恵会医科大学後援会」が設立されている。
復興は急ピッチで進められ、大正13年2月に、附属東京病院と東京慈恵会医院の仮病院が落成し、5月1日の創立記念式典では、来賓を迎えて、慈恵会会員、教職員、学生などが新しい木造講堂に集まり、復興祝賀会も催された。
昭和8年6月。本来、昭和6年に行われるはずであった創立五十周年記念式と合わせて、大学本館新築落成式が行われている。復興への道のりは、長く困難を極めたものだったが、大学として強く大きく成長した時期でもあった。
5. 終戦を乗り越えて 昭和20年(1945)
苦しい混乱期を経て学校法人として再出発
昭和20年(1945)3月11日。慈恵のキャンパスに一発の焼夷弾が着弾した。これまでの規模を上回る東京大空襲の始まりであり、戦争の影が色濃く慈恵を包み込み始めた瞬間でもあった。
それまでも影響はあった。戦線の拡大とともに軍医不足が顕著となり、卒業生の約8割が軍医になり、昭和16年12月の第16回卒業生は卒業が3カ月繰り上げとなり、さらに翌年以降は教育期間が6カ月短縮された。他にも医学専門部の開設、歯科医師への1年間の転向教育といった対策もとられていた。
しかし、空襲が日常生活を脅かすようになり、貴重な図書や機械、標本類を運び出して疎開させ、大学自体も数か所に分れて疎開することを余儀なくされた。
敗戦によって生じた変化への対応に追われる
昭和20年(1945)8月15日の終戦を、慈恵の学生たちは様々な場所で迎えた。翌年3月卒業予定だった4年生は繰り上げで卒業試験を受けている最中だったが、そのまま試験は続けられた。彼らの卒業式は翌昭和21年9月に行われ、仮の卒業証書が手渡された。
終戦は本学の存立基盤自体にも大きな変化をもたらした。大学の運営方法が見直される一方、東京慈恵会は、昭和30年(1955)3月に慈恵高等看護学院(現・慈恵看護専門学校)が東京慈恵会医科大学より東京慈恵会へ移管されるまでの約10年間事実上活動を休止する状態となった。
こうした混乱の中、昭和26年(1951)3月26日に、私立学校法に基づき「学校法人慈恵大学」と名称を改め、学校法人組織のなかに、東京慈恵会医科大学、慈恵高等看護学院、慈恵高等学校などの機構を附属させる形で再出発したのである。
6. 樋口時代 昭和33年(1958)
良き医療人を育てる理想的な環境作りを目指して
樋口一成学長(理事長)
昭和33年(1958)12月、樋口一成は東京慈恵会医科大学第6代学長に選任され、ほぼ同時に学校法人慈恵大学理事長に就任した。その後の9期18年にわたる“樋口時代”に、慈恵は大きく成長することになる。
樋口は就任にあたって、「学長としては学問的水準の高揚を図り、理事長としては病院の増改築を急ぐ」と宣言し、まず財政再建のために附属病院の新築に着手した。銀行から借り入れを行うとともに、学債を発行し、同窓生や父兄にも協力を求めた。
新病院として5年の月日をかけて病院の本館A棟を建て直し、昭和37年(1962)10月に盛大に落成式が催された。この時に本院の正式名称を東京慈恵会医科大学附属病院、通称を「慈恵大学病院」と改めている。
あまりにも多くの足跡を残して急逝する
樋口がもっとも力を入れていたのが、進学課程の設立と充実である。昭和35年(1960)4月に開校し、後に理想的な学習環境を実現するために、実験実習室、語学実習室、図書室などの施設を拡充していった。
また、講座の増設に伴い、昭和39年(1964)に306人だった教員数は、昭和47年(1972)には598人にまで増員されている。
樋口は、学外での活躍も卓越していた。その象徴とも言えるのが、私立医科大学の学長として初めて日本医学会総会会頭に選任され、開催されたことだ。しかし、その間の昭和50年(1975)8月26日に、樋口はこの世を去る。享年71歳。告別式の一般の会葬者は5,000人にも上った。
7. 創立百年 昭和55年(1980)
セント・トーマス病院医学校との提携など次世代の布石を打つ
昭和55年(1980)11月1日、東京プリンスホテルで、創立百年記念祝賀会が盛大に行われた。高松宮妃喜久子殿下からお言葉を賜り、来賓が祝辞を述べた後、マイクの前に立ったのは、英国のセント・トーマス病院医学校のクリーマー学長だった。
セント・トーマス病院医学校は、高木兼寛が留学した学校ではあったが、いつの間にか本学との交流は途絶えていた。本学の同窓である酒井好道と同校のホランド教授との個人的な交流をきっかけに、学内で議論が重ねられ、同年7月20日、百年の時を経て姉妹校提携が実現した。これを機に両校の間では交換留学が行われ、現在も続いている。
理想の実現のために遠大な記念事業を構想
創立百年事業への取り組みは、昭和50年(1975)に始まり、第1回の記念事業準備委員会で、メディカルセンターの設立が提案された。これは大学2号館の構想に引き継がれ、昭和55年2月20日地鎮祭が行われている。この他にも、樋口記念体育館の建設、「東京慈恵会医科大学百年史」の発行、本学誕生の地である成医会講習所の跡地に「東京慈恵会医科大学発祥之地」の記念碑建立、などがある。昭和59年(1984)には慈恵看護教育百年を迎えた。
また、創立百年に向けて募金活動も行われ、応募金額は開始5年後の昭和55年5月末までで31億円を超え、毎日新聞が「OBのファミリー的団結力で30億円集まった」と報じた。
創立百年を記念する事業とされたキャンパス確立の構想は、その後の新病院本館の建設、大学本館、附属研究施設へという遠大な計画につながっている。
8. 看護学科開学 平成4年(1992)
優れた看護を実践できる看護師の育成をめざして医学部に看護学科を設置
平成3年(1991)12月、医学部看護学科の設置が日本で初めて認可された。看護学科の設立は“慈恵の阿部”として看護の世界で広く名を知られていた阿部正和学長の悲願であり、「医師と看護婦は車の両輪の如し」と語った高木兼寛の理想でもある。だからこそ前例のない、医学部の中に看護学科を設置するということが重要だった。
しかし、当然、課題も多い。なかでも最大の難関は人材という壁だった。設置準備委員会の委員長だった馬詰良樹教授にとって、看護学科を設置するために必要な業績のある教授が少ないことが、悩みの種であり、もっとも慈恵にふさわしい人ということで白羽の矢が立ったのが、初代学科長となる吉武香代子だった。
臨床看護を愛する人たちで教員の陣容を構成
昭和63年(1988)5月12日当時、吉武は千葉大学看護学部長であり、学部長になって1期2年目を迎えていた。当初、申し出を固辞していた吉武だったが、「少人数制で看護婦を育てたい」という慈恵の方針に共感し、準備室長に就任した。
その後は、吉武を中心に、教授以下の教員の人選が進められた。平成3年(1991)5月22日の馬詰教授の教員人事の報告には、建学の精神を重要視して、臨床看護を愛する人たちで構成した陣容であることが熱く語られていた。
第1回の入学試験には、333人の応募があり、翌平成4年4月には31人の第1期生を迎えた。教員たちは、大学教育を軌道に乗せるために一致協力して教育にあたった。その後、大学院設置の準備に取りかかり、 平 成21年(2009)4月に、大学院医学研究科看護学専攻修士課程を開講している。
9. 130年目を迎えて 平成22年(2010)
医療の現場を重視した実践本位の教育を展開
開学以来130年を数える本学の卒業生は12,000人を超え、現役医師は6,000人、看護師は10,635人に上る。「病気を診ずして病人を診よ」という患者本位の姿勢を貫き、「医師と看護婦は車の両輪の如し」と考えた学祖・高木兼寛の精神を受け継ぎ、高度なスキル教育を行うとともに、医療の現場を重視した実践本位の教育を展開している。
本学では、医学の専門的な知識・技術だけでなく、医療倫理、インフォームド・コンセント、コミュニケーション、チーム医療などについて考えるとともに、人文・社会科学を学んで総合科学として医学を理解することができ、6年間を通して医学総論を学ぶカリキュラムが用意されている。
教育プログラムとしても、チーム医療の実践を学ぶチーム医療構築ワークショップ、コンピュータをベースにした総合試験システム、EBMの徹底、地域医療実習の強化など、意欲的に新しい取り組みを展開している。
慈恵の精神を具現化する医療の提供
研究面では、各基礎医学講座および臨床医学講座以外にも、DNAを共通言語として医学研究の発展を目指すDNA医学研究所や、バーチャルリアリティー技術の医療現場への応用に取り組む高次元医用画像工学研究所など、総合医科学研究センターの各研究所が最新の設備のもとで、先進的な研究を展開している。
附属病院においては、本院は、平成15年(2003)アジアで初めて脳血管内治療センターを開設、平成18年(2006)には大動脈瘤のステントグラフト手術を専用手術室で開始するなど、常に先進医療に取り組んでいる。青戸病院、第三病院、柏病院の3病院は地域の中核病院として信頼と実績を上げている。
現在、本学は、4つの附属病院だけでなく、全国の7,824人の同窓生とともに、質の高い医療を社会に提供し、慈恵の精神を具現化している。
本学の源流
年表
東京慈恵会医科大学の130年 歴史
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本学の源流
東京慈恵会医科大学の130年 歴史
1. 建学
2. 慈恵医院の設立
3. 東京慈恵会の誕生
4. 震災からの復興
5. 終戦を乗り越えて
6. 樋口時代
7. 創立百年
8. 看護学科開学
9. 130年目を迎えて
1. 建学 明治14年(1881)
イギリス医学に範をとり日本医学界の改革を目指す
英国留学時代の高木(明治8年頃)
明治14年(1881)5月1日、高木兼寛は京橋区鎗屋町十一番地(現中央区銀座4 丁目4 -1)に成医会講習所を開設した。松山棟庵が創設した東京医学会社の2階の大広間を借りての船出である。
この成医会講習所の基盤となったのが、同年1月に、高木と松山が18名の医師とともに発足させた成医会である。成医会は日本の貧弱な医療環境の改善を目指して立ち上げられた学術団体であり、医師を育てる成医会講習所もそうした活動の一環として始まったのである。
一方、成医会講習所が患者中心の医師を育成するためには、絶えず患者と接することができる病院が不可欠だった。その時、高木の念頭にあったのは、貧しい人々が診療を受けることができる施療病院であった。
皇室・貴族の支援を得て発展した有志共立東京病院
施療病院の名称を「有志共立東京病院」に決定した高木らは、早速、有志者からの設立資金を募る活動を開始。明治14年(1881)11月には、すでに廃止となっていた芝・愛宕町の旧東京府病院跡の借り受けが決まったが、同じ夏に発生したコレラの大流行により借り受けの実施が延期され、明治15年8月10日に、芝公園の天光院という寺院に仮住まいする形で診療を始めている。
明治17年(1884)4月19日には、有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下が総長に就任し、正式に開院式が挙行された。同年6月、翌年11月と皇室・貴族などによる婦人慈善会が、2度にわたって鹿鳴館でバザーを行い、その収益金によって明治18年に日本初の看護婦教育所である「有志共立東京病院看護婦教育所」が設立された。
その後、さらに皇室の協力を得て、病院の経営基盤は強化されていった。
2. 慈恵医院の設立 明治20年(1887)
皇后陛下の御心により「慈恵」の名を冠した病院が誕生
皇后陛下(昭憲皇太后)
明治20年(1887)に入ると、皇室との関係はますます深まり、皇后陛下の御意向によって病院名は4月1日に「東京慈恵医院」と改称された。
これに伴い、幹事長に有栖川宮熾仁(たるひと)親王妃薫子(ただこ)殿下が就任し、公爵夫人毛利安子以下9名が幹事に任命された。
明治20年(1887)5月9日には、皇后陛下のご臨席を仰いで東京慈恵医院の開院式が行われたが、皇后陛下による病院の行啓と御巡視は、その後も昭和に至るまでほぼ毎年行われた。
一方、成医会講習所は海軍医務局学舎との共棲が続いていたが、新たに校舎を手当てして明治23年(1890)8月に「成医学校」の名で最初の生徒募集を行い、翌明治24年9月には、東京慈恵医院に附属する教育機関として「東京慈恵医院医学校」と改称されている。
教育レベルの高さが認められ日本初の私立医学専門学校に
明治20年(1887)には、看護婦教育所も「東京慈恵医院看護婦教育所」と改められ、日本で初めての看護留学生を英国のセント・トーマス病院に留学させ、翌明治21年2 月1日には、記念すべき第1回の卒業生5名を送り出している。
同年2月3日には正式に教育を受けた看護婦による初めての派出看護を実施し、明治24年(1891)の濃尾震災では、皇后陛下から震災患者を救療するため出張するようにご沙汰があり、医師と薬剤師とともに卒業生20名が救護にあたっている。
東京慈恵医院医学校は、明治36年(1903)3月の専門学校令を受けて、我が国初の私立医学専門学校「東京慈恵医院医学専門学校」となる。明治38年(1905)10月には、東京慈恵医院医学専門学校は、本科卒業生が医術開業試験を受けずに医師免許を与えられる文部大臣指定校に認定された。
3. 東京慈恵会の誕生 明治40年(1907)
より充実した診療のために盤石の組織を作る
東京慈恵会会長 徳川家達
明治40年(1907)7月19日、社団法人東京慈恵会の設立が認可され、病院の名称も「東京慈恵会医院」と改められた。東京慈恵会では、これまでの皇室と貴族中心の体制に加えて、会長に徳川宗家16代目の徳川家達(いえさと)、副会長に経済界から渋沢栄一を迎えたことで、皇室・徳川・明治政府・経済界のすべてが結びついた。
東京慈恵会副会長 渋沢栄一
このシナリオを描いたのは、渋沢栄一と穂積陳重(ほづみのぶしげ)である。渋沢栄一夫人の渋沢かね子と長女の穂積歌子、次女の阪谷琴子は以前からの慈恵の支援者であり、その関係から「日本の資本主義の父」である渋沢栄一が慈恵の実業家団体募金委員長となり、渋沢の娘婿で「日本の民法の祖」といわれる穂積陳重が人事構想を練った。そこにはドイツ医学を推進してきた岩佐純らの名前も見られ、立場を超えた顔ぶれだったことがわかる。
新たな体制のもと大きな成長が図られる
東京慈恵会医院医学専門学校風景(明治42年頃)
東京慈恵会の誕生によって、東京慈恵会医院は大きく発展する。渋沢の影響力もあって、寄附・利子・配当金は東京慈恵医院時代の約5倍に達した。明治41年(1908)には悲願であった病院施設を拡充し、外来患者500名、入院患者120名を受け入れられる以前の2倍の規模となった。
また、東京慈恵医院医学専門学校も明治41年5月に「東京慈恵会医院医学専門学校」と校名を新たにするとともに、卒業式には各界の重鎮が出席し、その体制も変化していく。明治44年(1911)には、病理学教室と細菌学教室が完成し、定員150名の予科を併設するなど、この時期に教育機関としてより一層の充実も図られている。
4. 震災からの復興 大正12年(1923)
大学昇格直後に震災に見舞われる
初代学長 金杉英五郎
大正12年(1923)9月1日、大学に昇格したばかりの東京慈恵会医科大学を悲劇が襲った。関東大震災である。被害は、大学施設、大学附属東京病院、東京慈恵会医院、看護婦教育所のすべてに及び、残ったのはコンクリート造りの御大典記念館のみという惨状であった。
大学昇格運動は、大正7年(1918)に公布された大学令を受けて始まった。慈恵でも大正9年の初頭から大学昇格のために寄附金の募集が始められ、同年5月に文部省に対して「財団法人東京慈恵会医科大学」の設立認可を申請した。
大学の設立は翌大正10年(1921)10月に認可され、金杉英五郎が初代学長に就任した。
金杉学長のもと一丸となって復興に取り組む
復興への取り組みは、震災直後から開始された。まず焼け残った御大典記念館を応急修理するとともに、私立海城中学の一部を借りて授業を再開し、臨床の授業は日本赤十字築地臨時病院で行った。
学生たちは「振興学生会」を組織し、同窓会も見舞金を集めて、母校の復興を積極的に支援した。翌大正13年(1924)3月には支援団体として「東京慈恵会医科大学後援会」が設立されている。
復興は急ピッチで進められ、大正13年2月に、附属東京病院と東京慈恵会医院の仮病院が落成し、5月1日の創立記念式典では、来賓を迎えて、慈恵会会員、教職員、学生などが新しい木造講堂に集まり、復興祝賀会も催された。
昭和8年6月。本来、昭和6年に行われるはずであった創立五十周年記念式と合わせて、大学本館新築落成式が行われている。復興への道のりは、長く困難を極めたものだったが、大学として強く大きく成長した時期でもあった。
5. 終戦を乗り越えて 昭和20年(1945)
苦しい混乱期を経て学校法人として再出発
昭和20年(1945)3月11日。慈恵のキャンパスに一発の焼夷弾が着弾した。これまでの規模を上回る東京大空襲の始まりであり、戦争の影が色濃く慈恵を包み込み始めた瞬間でもあった。
それまでも影響はあった。戦線の拡大とともに軍医不足が顕著となり、卒業生の約8割が軍医になり、昭和16年12月の第16回卒業生は卒業が3カ月繰り上げとなり、さらに翌年以降は教育期間が6カ月短縮された。他にも医学専門部の開設、歯科医師への1年間の転向教育といった対策もとられていた。
しかし、空襲が日常生活を脅かすようになり、貴重な図書や機械、標本類を運び出して疎開させ、大学自体も数か所に分れて疎開することを余儀なくされた。
敗戦によって生じた変化への対応に追われる
昭和20年(1945)8月15日の終戦を、慈恵の学生たちは様々な場所で迎えた。翌年3月卒業予定だった4年生は繰り上げで卒業試験を受けている最中だったが、そのまま試験は続けられた。彼らの卒業式は翌昭和21年9月に行われ、仮の卒業証書が手渡された。
終戦は本学の存立基盤自体にも大きな変化をもたらした。大学の運営方法が見直される一方、東京慈恵会は、昭和30年(1955)3月に慈恵高等看護学院(現・慈恵看護専門学校)が東京慈恵会医科大学より東京慈恵会へ移管されるまでの約10年間事実上活動を休止する状態となった。
こうした混乱の中、昭和26年(1951)3月26日に、私立学校法に基づき「学校法人慈恵大学」と名称を改め、学校法人組織のなかに、東京慈恵会医科大学、慈恵高等看護学院、慈恵高等学校などの機構を附属させる形で再出発したのである。
6. 樋口時代 昭和33年(1958)
良き医療人を育てる理想的な環境作りを目指して
樋口一成学長(理事長)
昭和33年(1958)12月、樋口一成は東京慈恵会医科大学第6代学長に選任され、ほぼ同時に学校法人慈恵大学理事長に就任した。その後の9期18年にわたる“樋口時代”に、慈恵は大きく成長することになる。
樋口は就任にあたって、「学長としては学問的水準の高揚を図り、理事長としては病院の増改築を急ぐ」と宣言し、まず財政再建のために附属病院の新築に着手した。銀行から借り入れを行うとともに、学債を発行し、同窓生や父兄にも協力を求めた。
新病院として5年の月日をかけて病院の本館A棟を建て直し、昭和37年(1962)10月に盛大に落成式が催された。この時に本院の正式名称を東京慈恵会医科大学附属病院、通称を「慈恵大学病院」と改めている。
あまりにも多くの足跡を残して急逝する
樋口がもっとも力を入れていたのが、進学課程の設立と充実である。昭和35年(1960)4月に開校し、後に理想的な学習環境を実現するために、実験実習室、語学実習室、図書室などの施設を拡充していった。
また、講座の増設に伴い、昭和39年(1964)に306人だった教員数は、昭和47年(1972)には598人にまで増員されている。
樋口は、学外での活躍も卓越していた。その象徴とも言えるのが、私立医科大学の学長として初めて日本医学会総会会頭に選任され、開催されたことだ。しかし、その間の昭和50年(1975)8月26日に、樋口はこの世を去る。享年71歳。告別式の一般の会葬者は5,000人にも上った。
7. 創立百年 昭和55年(1980)
セント・トーマス病院医学校との提携など次世代の布石を打つ
昭和55年(1980)11月1日、東京プリンスホテルで、創立百年記念祝賀会が盛大に行われた。高松宮妃喜久子殿下からお言葉を賜り、来賓が祝辞を述べた後、マイクの前に立ったのは、英国のセント・トーマス病院医学校のクリーマー学長だった。
セント・トーマス病院医学校は、高木兼寛が留学した学校ではあったが、いつの間にか本学との交流は途絶えていた。本学の同窓である酒井好道と同校のホランド教授との個人的な交流をきっかけに、学内で議論が重ねられ、同年7月20日、百年の時を経て姉妹校提携が実現した。これを機に両校の間では交換留学が行われ、現在も続いている。
理想の実現のために遠大な記念事業を構想
創立百年事業への取り組みは、昭和50年(1975)に始まり、第1回の記念事業準備委員会で、メディカルセンターの設立が提案された。これは大学2号館の構想に引き継がれ、昭和55年2月20日地鎮祭が行われている。この他にも、樋口記念体育館の建設、「東京慈恵会医科大学百年史」の発行、本学誕生の地である成医会講習所の跡地に「東京慈恵会医科大学発祥之地」の記念碑建立、などがある。昭和59年(1984)には慈恵看護教育百年を迎えた。
また、創立百年に向けて募金活動も行われ、応募金額は開始5年後の昭和55年5月末までで31億円を超え、毎日新聞が「OBのファミリー的団結力で30億円集まった」と報じた。
創立百年を記念する事業とされたキャンパス確立の構想は、その後の新病院本館の建設、大学本館、附属研究施設へという遠大な計画につながっている。
8. 看護学科開学 平成4年(1992)
優れた看護を実践できる看護師の育成をめざして医学部に看護学科を設置
平成3年(1991)12月、医学部看護学科の設置が日本で初めて認可された。看護学科の設立は“慈恵の阿部”として看護の世界で広く名を知られていた阿部正和学長の悲願であり、「医師と看護婦は車の両輪の如し」と語った高木兼寛の理想でもある。だからこそ前例のない、医学部の中に看護学科を設置するということが重要だった。
しかし、当然、課題も多い。なかでも最大の難関は人材という壁だった。設置準備委員会の委員長だった馬詰良樹教授にとって、看護学科を設置するために必要な業績のある教授が少ないことが、悩みの種であり、もっとも慈恵にふさわしい人ということで白羽の矢が立ったのが、初代学科長となる吉武香代子だった。
臨床看護を愛する人たちで教員の陣容を構成
昭和63年(1988)5月12日当時、吉武は千葉大学看護学部長であり、学部長になって1期2年目を迎えていた。当初、申し出を固辞していた吉武だったが、「少人数制で看護婦を育てたい」という慈恵の方針に共感し、準備室長に就任した。
その後は、吉武を中心に、教授以下の教員の人選が進められた。平成3年(1991)5月22日の馬詰教授の教員人事の報告には、建学の精神を重要視して、臨床看護を愛する人たちで構成した陣容であることが熱く語られていた。
第1回の入学試験には、333人の応募があり、翌平成4年4月には31人の第1期生を迎えた。教員たちは、大学教育を軌道に乗せるために一致協力して教育にあたった。その後、大学院設置の準備に取りかかり、 平 成21年(2009)4月に、大学院医学研究科看護学専攻修士課程を開講している。
9. 130年目を迎えて 平成22年(2010)
医療の現場を重視した実践本位の教育を展開
開学以来130年を数える本学の卒業生は12,000人を超え、現役医師は6,000人、看護師は10,635人に上る。「病気を診ずして病人を診よ」という患者本位の姿勢を貫き、「医師と看護婦は車の両輪の如し」と考えた学祖・高木兼寛の精神を受け継ぎ、高度なスキル教育を行うとともに、医療の現場を重視した実践本位の教育を展開している。
本学では、医学の専門的な知識・技術だけでなく、医療倫理、インフォームド・コンセント、コミュニケーション、チーム医療などについて考えるとともに、人文・社会科学を学んで総合科学として医学を理解することができ、6年間を通して医学総論を学ぶカリキュラムが用意されている。
教育プログラムとしても、チーム医療の実践を学ぶチーム医療構築ワークショップ、コンピュータをベースにした総合試験システム、EBMの徹底、地域医療実習の強化など、意欲的に新しい取り組みを展開している。
慈恵の精神を具現化する医療の提供
研究面では、各基礎医学講座および臨床医学講座以外にも、DNAを共通言語として医学研究の発展を目指すDNA医学研究所や、バーチャルリアリティー技術の医療現場への応用に取り組む高次元医用画像工学研究所など、総合医科学研究センターの各研究所が最新の設備のもとで、先進的な研究を展開している。
附属病院においては、本院は、平成15年(2003)アジアで初めて脳血管内治療センターを開設、平成18年(2006)には大動脈瘤のステントグラフト手術を専用手術室で開始するなど、常に先進医療に取り組んでいる。青戸病院、第三病院、柏病院の3病院は地域の中核病院として信頼と実績を上げている。
現在、本学は、4つの附属病院だけでなく、全国の7,824人の同窓生とともに、質の高い医療を社会に提供し、慈恵の精神を具現化している。
本学の源流
年表