石飛 文太|オトナ一年生になるあなたへ|姫路獨協大学
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「オトナ1年生になるあなたへ」
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16
Interview
島根県立大社高校国語科教諭
野球部監督
石飛 文太
さん
夢は無限大。
限界を自分で決めるな
オトナ1年生になるあなたへ
石飛 文太
16
Interview
島根県立大社高校国語科教諭
野球部監督
石飛 文太
さん
夢は無限大。
限界を自分で決めるな
プロフィール
1981年9月、島根県出雲市生まれ。県立大社高校で野球部、姫路獨協大学では準硬式野球部に所属。国語科の教員免許を取得して2004年に卒業後、県内外の高校に勤務した。2011年から5年間、大社高校で野球部コーチを務める。他校勤務を経て2020年、再び大社の野球部部長、同年8月に監督に就任。2024年夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)に島根代表として32年ぶりに出場したチームを、93年ぶりのベスト8へ導いた。時に涙ぐんでインタビューに答える姿が話題を呼んだ。
野球との出合いを教えてください。
物心ついたときからボールの壁当てをしていました。ボールがつるつるになるまで、一日中やっていましたね。小学3年生から地元のスポーツ少年団に所属しました。5年生だった1992年に大社高校が夏の甲子園に出場し、そこに少年団の先輩も出ていたのを覚えています。甲子園に本格的に憧れたのはそれからです。
18歳の頃はどんな将来を考えていましたか。
母校でもある大社高校は文武両道をうたい、進学校でもあります。ただ、僕はずっと野球をやっていたので、将来のことを真剣に考え始めたのは3年生の夏の大会が終わってからでした。その頃は、高校野球の指導者になるために教員になりたいと思っていました。
自分でも忘れていたんですが、野球の指導者というのは中学生の頃から言っていたらしいです。2024年夏の甲子園に行く時、中学時代の恩師に電話で報告したら、「夢を叶えたな」と言われたんです。「何のことですか」と聞くと、「大社高校の監督として甲子園に行く」と、その頃から言っていたということでした。
もちろん選手としても行きたかったのですが、その時で大社は既に5年ほど甲子園に縁がなかった。結局行けず、高校としては32年間も甲子園から遠ざかってしまいました。
姫路獨協大学に進学を決めた理由を教えてください。
とにかく教員免許を取りたい一心でした。複数の大学を受けましたが、最後の最後に姫路獨協大学の外国語学部日本語学科が受け入れてくれました。ここに落ちていたら大学へは行っていません。免許のための勉強を優先する意味もあって、大学では硬式でなく準硬式野球部で野球を続けました。
教員免許は野球の指導者になる手段だったということですか。
その時はそうでしたね。普通、高校野球の監督には簡単にはなれません。まして大社高校野球部は創部120年を超える伝統も、甲子園への出場経験もある。野球部の監督に就任するのは、結構大変です。自分は選手としてスターではなかったし、大学でも硬式経験がない。いわゆる野球エリートではありません。でも、結果的には指導の道に入ることができ、あれよあれよという間に甲子園に行けました。運がいいですよね。
ただ、教員になれなければ、まずチャンスは来なかったと思います。姫路獨協大学に行ってなかったら、ここ(大社高校監督)にいないのは間違いない。
姫路獨協大学の印象について。
正直に言うと、姫路の場所もよく知らなかったのですが、行ってみていいところだと思いました。とにかくいろんな人と付き合いましたね。それこそ講義に行かない同級生もいたし、世の中にはいろんな人がいるんだなと思いました。だから、僕は多様な価値観に寛容です。
基本的に教員になる人はみんな勉強ができるし、エリートです。僕みたいに成績の良くなかった人はいない。僕自身が大学でちゃんとしたものを得ていないこともあって、胸を張って大学名を言えなかった時期もありました。でも、大社の監督になって経歴が表に出るようになり、甲子園でベスト8に行くこともできて、知られるようになった。教員免許が取れて、高校生の勉強や野球の指導もできています。そういう意味では、大学に少しは貢献できたかもしれません(笑)。
最初から母校に帰るつもりだったんですね。
そうですね。教員生活のスタートは2004年、兵庫県・淡路島の県立志知高校(2009年閉校)でした。その時はサッカー部顧問でしたが、そこに勤務していた先生が、数年後(2012年)に21世紀枠で選抜高校野球大会に出た時の洲本高校の監督で、今でもお付き合いさせてもらっています。そんな野球との縁もありました。
2011年に大社高校に講師で来た時は、正採用で勤めていた私立高校の教員を辞めて採用試験を受けました。リスクはありましたが、野球の指導を母校でしたいがためでした。その後も県内外のいろいろな高校に赴任し、生徒が医者を目指す、東大を目指す進学校でも教えました。やろうと思えば何とでもなります。その経験は自信になりましたね。
大事にする「モットー」はありますか。
甲子園でできました。「夢は無限大」です。
甲子園では報徳学園(兵庫)、創成館(長崎)、早稲田実業(西東京)という全国クラスの強豪校と対戦して勝利を収め、ベスト8を達成することができました。こちらは出雲市という小さな町にあり、生徒は地元出身者ばかりです。前評判は低いものでしたが、それは周囲が決めたこと。「自分たちはこれくらいだ」と限界を決めず、仲間と力を合わせて全力で夢を追うことの尊さを生徒から学びました。「生徒の可能性、夢は無限大」です。
1回戦で報徳学園に勝った後のインタビューの時です。実際に何を話すか考える余裕もない中、不意に出てきた言葉が「無限大」でした。
戦力は大人が勝手に決め付けているだけかもしれない。実は僕もそうだったんですけど。組み合わせ抽選では、くじを引いたキャプテンを「何を引いとるんや」「こっちは32年ぶりやぞ」と怒りました(笑)。それでも、彼らは「いや行けます」と言っていました。「全然行けます」と。こっちは「ほんとか」と言うしかなかった(笑)。
オトナ1年生にメッセージをお願いします。
「限界を決めつけるな、自分で自分の限界を」ですね。なにしろ可能性は無限大なので。自分はこれぐらいだ、島根だからこれぐらいだ、32年ぶりだから負ける。そう思わなかったことの大事さを、甲子園で部員に教えてもらいました。
昔のご自分を振り返ると、限界を決めていたと思いますか。
決めていなかったと思いますが、ひねくれてはいましたね。人のせいにしていました。
高校3年の最後の試合は、背番号は(レギュラーに与えられる)1桁だったんですが、出られませんでした。当時は「監督が使ってくれんけん、出られんかった」と思っていました。「試合に出さんのやったら、1桁番号なんかくれるな」と。試合後に監督から「出してやれんでごめんな」と言われ、「その同情が一番つらいんだわ」と思いました。
今、当時の監督の気持ちは分かりますか。
自分が本当にうまければ出られたと思います。ただ、選手に対する接し方として、僕は同情はしません。選手には事前に「オレは同情はせん。同情したらお前が一番つらくなるけん、同情でベンチに入れることはない」「ただ、お前がこの試合でこうなったら入れるで。それはお前の力で入ったことになるけんな」などと伝えるようにはしています。いろいろな経験をしてきたので、いろいろな人の気持ちは分かるつもりです。
甲子園での活躍の反響はすごかったのではないですか。
めっちゃ来ましたよ。おばあちゃんが「試合を見て寿命が5年延びました」と手紙に書いてきて。「すげえな俺ら、寿命を延ばす力があるんだ」と喜んで(笑)。「(エースの)馬庭優太君を見て、うちの女の子が野球を始めました」とか。そういうのはうれしいですね。
地域貢献とか子どもに夢をとか、高校野球の監督をすると、どこかで思うんです。でもそれを体現することは非常に難しいです。そこで我々にできることは勝って甲子園に行き全力でプレーすることだと感じました。それを見て何かを感じて頂ければ幸いだと。だから、昨年は勝つことだけを考えました。それで勝ったらこんなに反響があった。それに「おめでとう」ではなく、「ありがとう」って言われるんですよ。僕らはただ野球をしていただけです。「ありがとう」はこっちの台詞だと思います。
大会3回戦の早稲田実業戦の延長タイブレークという重大場面で「バントを決められる者は」と問いかけ、手を挙げた選手を出して成功させた采配が話題になりましたね。
試合の話ではないですが、今度、早稲田実業に練習を見学させてもらいに行きます。学校に直接電話したら、野球部監督の和泉(実)さんが出てこられました。「すんません、大社の」と名乗ると、「おー、教えてや、バントの仕方」って言われました(笑)。東京に行く予定があって練習を見せてほしいとお願いしたら快諾してくださいました。
僕は監督に就任してから、ツテも何もないんですけど全国の強豪校に直接電話して、練習試合をお願いしてきました。もちろん、断られたところもありますが、取りあえず飛びこまないと始まらないと思っています。
監督業は楽しいですか。
楽しいですよ。(甲子園出場常連校の)名将に聞くと、楽しいとはおっしゃらないと思います。優勝が義務付けられ、学校を背負ってやっていますから。僕はそれはないですから。失うものは何もない。
でも本当は、僕は厳しいんです。もともとは全然しゃべらない。グラウンドで一つも笑わず、ずーっと本気で怒っていました。変わったのはこの1、2年です。試合に勝てないからです。散々厳しくやって、それでも勝てない。ある時、「変わらんといけんのは俺か。じゃあ、180度変わろう」と思いました。一気には変われないから、「怒る」を「見守る」にするところから始め、選手と距離をつくっていたのを、対話するようにしました。昔の教え子たちからすると今は別人でしょう。
将来展望を教えてください。
甲子園に行けなかった32年間の辛さを、次の指導者や選手や高校の関係者に味あわわせたくないので、またすぐ行きたいと思います。
シンプルに、今のチームで甲子園に行きたい。今はそれしか考えていません。1回行っただけでなく、2年連続というのはとんでもないことなんです。公立で、島根でというのは。昨年より戦力は落ちるかもしれませんが、それこそ大人が決め付けちゃいけない。
実は昨年、僕は「何が何でも甲子園」という目標を立てていたんですよ。ところが、選手は裏で「何が何でも甲子園ベスト8」を目標にしていたんです。インタビューで「なぜベスト8」と聞かれて「甲子園を目指していたら、甲子園も行けないんで」と答えていました。「すげえな、お前ら」と思いました。
目標をベスト8にしていたから、そこに行けたんだと思います。彼らはやり抜いた。ベスト4にしていたら、そこに行けていたかも。もし全国制覇を目標としていたら全国制覇できていたかも、と本気で思います。
そして、これからも皆様に応援してもらえるような大社高校である続けることと、仲間と野球を楽しむ生徒達と一緒に純粋に野球をすることが将来の展望ですね。
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