全日本空輸の前身は、日本ヘリコプター輸送と極東航空である。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)に運航禁止期間の解除の決定が下されたことを受けて、同年に両社は設立された。日本ヘリコプター輸送(英:Japan Helicopter and Airplane Transportation Co.、通称「JHAT」「日ペリ」「日ペリ航空」)のルーツは、戦前の朝日新聞航空部で上司部下の関係であった美土路昌一(後に全日空社長、朝日新聞社長)と中野勝義(後に全日空副社長)が中心となり、終戦後の民間航空関係者の失業救済を目的として、1945年(昭和20年)に設立した社団法人興民社にある。これが後々の1952年(昭和27年)12月27日に、興民社の組織や人脈を基盤として設立されたのが日本ヘリコプター輸送であった。設立の際は美土路や中野の古巣である朝日新聞社を始め、第一物産(現・三井物産)や富士製鐵(現・日本製鉄)、東京電力(現・東京電力ホールディングス)、住友銀行(現・三井住友銀行)、名古屋鉄道、日本商工会議所といった財界の大物が設立発起人に名を連ねた[14][15]。特に富士製鐵の永野重雄とは美土路と相談しながら、同社設立の手続きを進めた[16]。若狭得治は「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と述べている[16]。全日空は、その後もハワイのチャーター便問題や、日本貨物航空の問題など、多くに永野の力を借りた[16][17]。
当初は東京を拠点にヘリコプターによる宣伝事業のみを行っていたが、NHKの報道ヘリコプターの運航や空中散布、やがて飛行機による事業にも参入し、1953年(昭和28年)12月15日にデ・ハビランド ダブによる貨物航空事業を開始した。1954年(昭和29年)2月1日には旅客航空事業を開始、東京を13時30分に出発し大阪に16時着、大阪を17時に出発し、東京に19時15分着の1日1往復、集合場所から飛行場までの送迎サービスが付いて料金は片道4500円であった[18]。
極東航空株式会社は、日ペリより1日早い1952年(昭和27年)12月26日に、太平洋戦争前に関西で航空事業を行っていた井上長一らが関西財界の後援を受けて大阪で設立。大阪を拠点として、大阪 - 四国・大阪 - 九州といった西日本方面の航空路線を運営していた。

その後、国内航空輸送を一本化するという運輸省の方針などにより、両社は美土路昌一(日ペリ社長)、菅野和太郎(極東社長)の下で、合併に向けて協議を開始する。合併比率で揉めたものの、日本商工会議所会頭藤山愛一郎、日本航空協会会長郷古潔、日本航空社長柳田誠二郎らの斡旋により合併手続きは進み、1958年(昭和33年)3月1日、合併登記が完了した[注釈 3]。
初代社長には、元朝日新聞社常務取締役で日本ヘリコプター輸送創設者の美土路昌一が就任した。この合併により全日本空輸(ANA)は、ダグラスDC-3型機9機、デ・ハビランド DH.114 ヘロン3機、デ・ハビランド DH.104 ダブ4機、ベル47D-1ヘリコプター4機など、合計26機をもって、北は北海道から南は沖縄までの日本全国19都市を結ぶ、日本国内最大のネットワークを誇る航空会社となった[注釈 4]。
ANAの成長の過程で特徴的なこととして、総代理店制度の採用が挙げられる。これは、航空輸送事業の黎明期に、各就航地の有力企業と提携し、航空会社の業務のうち、市内業務(営業活動)と空港業務(ハンドリング業務)を業務委託するという画期的な制度であった。業務委託は、市内では航空券販売や電話予約センター、代理店販売促進活動、団体営業など、空港では旅客ハンドリング・貨物ハンドリングから、機内における各種業務や機内清掃まで、幅広かった。
総代理店の主な会社は、今は路線廃止で業務を終了している会社もあるが、「北海道地区」で、三ツ輪運輸(釧路・女満別)、道北バス(旭川)、函館エアサービス(函館)、「東北地区」で日本通運(仙台・秋田)、庄内交通(庄内)、秋北航空サービス(青森・大館能代)、「中部地区」で名古屋鉄道(名古屋)、福井空港(福井)、北陸鉄道(小松)、富山地方鉄道(富山)、新潟交通(新潟)、エスエーエス【旧・静岡エアポートサービス】(静岡)、「関西地区」で名古屋鉄道(南紀白浜)、「中国地区」で両備ホールディングス【旧・両備バス】(岡山)、中国ターミナルサービスJTB(広島)、サンデン交通(山口宇部)、日ノ丸自動車(鳥取・米子)、「四国地区」で高松商運(高松)、伊予鉄道(松山)、とさでん交通(高知)、「九州地区」で九州産業交通(熊本)、長崎空港ビル(長崎)、大分航空ターミナル(大分)、宮崎交通(宮崎)、南国交通(鹿児島)、福江空港ターミナルビル(五島福江)等が挙げられる。総代理店は、大口の株主にもなり、名古屋鉄道は長らくANAの筆頭株主であった。その関係で名古屋鉄道と宮崎交通は、ANAの社外取締役を輩出しており、特に名鉄は現在まで継続している。ANAと総代理店が共同で航空需要の開拓を行ってきたが、昨今では予約のインターネットへの移行等で総代理店の業務も空港業務に絞られてきている。
その創立に関わった名古屋の名鉄グループとの資本関係は変わっておらず、ANAと名鉄グループに代表される名古屋政財界は有形無形両面からの強力な結びつきを持っているといわれている。その結びつきが表面化した一例として、ANAがそのプログラムローンチ以来深い関わりを持って量産体制を構築したボーイング社最新鋭機ボーイング787(ドリームライナー)の胴体や主翼など主要部品が、愛知県に集積している日本の航空機製造産業拠点で製造され、愛知県常滑市の中部国際空港から787最終組み立て工場がある米国本土シアトルまで専用機で特殊貨物輸送を行っている例がある。前述の総代理店制度時代から現在の787国内生産体制に至るまで、ANAと中部地方の産業界とはとても親密な関係を維持している事が他の企業にはない特徴であるといわれている。
全日空は1959年(昭和34年)4月1日に東京 - 大阪直行便(毎日2便 DC-3)の開設に続き、10月10日には東京 - 札幌(千歳)直行便を開設し、国内幹線への進出を果たす。また、1960年(昭和35年)12月、韓国学生文化使節団一行の帰国便をコンベア440によりソウル(金浦)へ運航し、国際チャーター便も開始した。1961年(昭和36年)9月23日には、当時まだ米軍施政下にあった沖縄への定期便、鹿児島 - 沖縄線の第一便がフォッカー F27により運航を開始した。この路線は1972年(昭和47年)の沖縄返還まで全日空で唯一の国際定期便であった。1962年(昭和37年)10月には戦後初の国産旅客機であるYS-11の20機の予備契約を行い、同社は初のローンチカスタマーとなった。正式契約は1964年(昭和39年)となり、同年9月9日に2号機をリースし、「オリンピア」の愛称で当時開催された東京オリンピックの聖火を日本全国に空輸した。
高度経済成長に伴う航空需要拡大を受けて、機材も大型化し、当時日本航空のダグラス DC-4より1 - 2割高速だったコンベア440や、フォッカー F27、YS-11、ヴィッカース・バイカウントシリーズ、ボーイング727型機などの当時の最新鋭機を精力的に導入していった。また、航空行政(運輸省)の方針に従い、中小航空会社の合併・事業継承も行った。1964年(昭和39年)11月1日、藤田航空を吸収合併し、1965年(昭和40年)2月1日、中日本航空の定期航空部門を吸収、さらには1967年(昭和42年)12月1日、長崎航空の定期航空部門を継承した。これらにより、1968年(昭和43年)には、世界民間航空旅客輸送実績ランキングで、日本航空を抜き第19位に浮上し、1979年(昭和54年)にはアメリカン航空 (AA) に次ぐ、世界第6位の航空会社となった。
1968年に羽田空港と伊丹空港に同社初のグランドホステス(現在のグランドスタッフ)が誕生。[26]
1976年2月にはロッキード事件が明るみに出た。全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、ロッキード社が全日空にL-1011 トライスターを導入させるため田中角栄を始めとする閣僚らに多額の賄賂が支払われたという事件で、全日空においても澤雄次専務、藤原亨一取締役、若狭得治社長、渡辺尚次副社長などが外為法違反や偽証罪などで逮捕された[27][28]。1976年3月22日、全日空は「トライスターはこうして選ばれた」とするテーマで社内報増刊号を発行、社員に向け潔白であることを訴えた[29]。
設立当初より国内線が主軸であった。全日空は国際線への参入を計画していたが、日本航空の「第二の国際線会社が東南アジア路線に進出すると、航空協定のバランスが崩れて日本に対する批判が高まる」とする反対意見により実現は困難を極めた[30]。さらに1970年には「45/47体制」と呼ばれる当時の運輸省の政策により、日本航空は国際線と国内線幹線を、全日空は国内線幹線とローカル線・近距離国際線チャーターを、東亜国内航空は国内ローカル線の運航を担当し将来的には幹線に参入するという棲み分けができた。この時点で全日空の国際定期便への参入は事実上不可能となったが、一方で全日空は日本航空の許可と余剰機体の使用などの条件は付くものの、国際チャーター便を運航することが可能となり、1971年(昭和46年)に香港にチャーター便を飛ばして以降、国際線の運航実績を積み上げていった。
1978年(昭和53年)、アメリカで航空規制緩和法が成立すると各国でも航空会社の競争が始まり、1980年代には日本の45/47体制も転換の時期を迎えた。 全日空は1986年(昭和61年)3月3日より成田 - グアム間を結ぶ国際線定期便の運航を開始[31]。最初の路線はロッキード L-1011 トライスターの運航によるものだった[32](その後撤退)。
同年にアメリカ本土への路線として成田 - ロサンゼルス線と成田 - ワシントンDC線をボーイング747-200B型機で就航させた。翌1987年(昭和62年)は中華人民共和国への路線として成田 - 北京線と成田 - 大連線、当時イギリスの植民地であった成田 - 香港線を開設、同年10月には成田 - シドニー線を開設した(その後撤退)。1988年(昭和63年)には大韓民国への路線として成田 - ソウル(金浦)線を開設し、1989年(平成元年)には初のヨーロッパ進出となる成田 - ロンドン(ロンドン・ガトウィック空港)[33]線を開設した。1990年(平成2年)11月には国際線のネットワーク拡張に合わせてボーイング747-400を導入した。
1993年 関西国際空港の開港に合わせANAが全日本空輸(株)大阪空港支店の機能の一部を分社化し、旅客サービスを担うANA SKYPAL(エーエヌエースカイパル)が誕生。また 1994年9月の関西国際空港開港までの間、ANA SKYPAL設立準備室を大阪市北区の全日空ビル内(現LUCID SQUARE UMEDA)にある、ANA大阪支店内に開室。その後、大阪国際空港及び関西国際空港、後に神戸空港と、関西3大空港の旅客サービスや地上運航支援業務を担っていた。2012年4月ANAグループ空港部門再編に伴い、(株)エーエヌエースカイパルを分割しANAエアポートサービス(旧APS※現行のANAASとは別会社)及び新関西エアポートサービス(株)とそれぞれ統合しANA大阪空港及びANA関西空港に再編され解散する。
1994年(平成6年)の関西国際空港開港後は、同空港を新東京国際空港(現在の成田国際空港)と並ぶ拠点と位置づけ中国や北東アジア路線だけでなく、デンパサール、ヤンゴン、ムンバイ、シドニー、ブリスベン、ローマ、ロンドンなど関空からの中・長距離の路線の開設を積極的に行った。特にアジアや中国線の就航は国内最大規模となり、ゲートウェイとしても力を入れていた。2000年頃までは小牧空港からホノルルへの路線や福岡空港からバンコクや上海、大連等への路線も開設していった。さらにアメリカ線の強化で成田からのシカゴやサンフランシスコ線を開設したほか、ジャカルタ、デンパサール、ムンバイ線を毎日運航で就航させたものの、その後の不採算などにより撤退した路線も多数ある。(シカゴ・デリー・ムンバイ・クアラルンプール・ヤンゴン・ジャカルタ・シドニーなどは就航当初の関空からは撤退しているものの、2006年 (平成18年)後半以降に成田・羽田から路線を復活させた。)当時はANA関西空港支店客室部があり、関空をベースに国内外の多くの路線に就航していた。また、エアーニッポンやエアージャパンのベースでもあった為、近距離国内線や国内各地にエアーニッポンが運航したり、ソウルやグアム路線は、エアージャパンが運航する等、ANAグループ全体ですみ分けをし、多くの路線網を展開していた。

その後1999年(平成11年)10月に、航空連合の一つであるスターアライアンスに9番目の航空会社として加盟した。スターアライアンス加盟航空会社とのコードシェアによって国際線路線網の少なさをカバーするとともに、重複路線からの自社運航便の撤退や、日本国外での知名度を向上させるなど、航空連合に加盟することで自社の弱点を補うという経営戦略への転換を図ることとなる。なお加盟後は機体に「STAR ALLIANCE」のマークとロゴマークを追加している。
経営不振に伴い、1999年5月に制定した2002年度に至るまでの中期経営計画では、選択と集中を推し進めるとし構造改革を勧めた[34][35]。ビジネスユーザにターゲットを絞った路線展開を進めることとなり、国際線に関しては従来ハブ空港であった成田と関空の2拠点を改め、二期工事完成を控える成田に経営資源を注力する方針となった。これに伴って関空発着の欧州・豪州方面の長距離路線は撤退・コードシェアへの移管を進めた。また関空発着路線に機内食を提供している関西インフライトケータリングを始めとする関空周辺の関連会社の経営権を手放したりした。関空を拠点とする新たな運航会社(エアージャパン)に関空発着路線を2000年度から全日空から運航を移管しコスト削減を進めるとした。これらの路線整理に伴い国際線は座席キロベースで3割程度削減した。国内線に関しては、関空・福岡路線を中心とした地方路線のエアーニッポンへの移管にともなうコスト削減、羽田への経営資源の集中投下を進めるとした。
2000年7月に日本航空、日本エアシステム (JAS)とともに東京(羽田)-大阪(伊丹・関空)においてシャトル便の運航を開始した。[注釈 5]
関空発着の長距離線撤退に伴い国際線の事業規模は縮小したものの、2001年3月期においては旅客数の向上、上級クラスの利用率向上が見られるなど収益性は向上し黒字転換に近づいた。関空発着路線においても新たにホノルル線[注釈 6]を開設するなどしてアジアおよびリゾート路線の拠点空港としての立ち位置を明確にさせたり国際線のエアージャパン・国内線のエアーニッポンへの移管を進めたりと収益性の向上に努めた。また一部の羽田発着の国際チャーター便にも参入した[36]。後にホノルル路線は、ユナイテッド航空の共同運航便として路線を維持。半数以上の座席をANAが販売し、機材や乗務員はユナイテッド航空によるものだったが、その後運休。
これらの改革の結果、定期便進出から18年後の2004年度に国際線の初の黒字化を達成した[37]。
2001年(平成13年)9月に発生したアメリカ同時多発テロ事件による世界規模での航空需要の落ち込みを受けて業績が低迷し、国土交通省の助けを受けて日本航空や日本エアシステムとともに政府系金融機関の日本政策投資銀行から無利子融資を受け、経営の再建を図ることとなった[38]。しかし、2003年(平成15年)度と2004年(平成16年)度にもSARSの蔓延などにより再度世界規模での航空需要の落ち込みが起きたことで業績が低迷し、リストラを行うことを条件に日本政策投資銀行から合計500億円に上る無利子融資を受けた[39]。この結果2003年(平成15年)度は黒字を計上。悲願であった復配も達成した。また2004年(平成16年)4月26日に、ボーイング社が開発しているボーイング787(開発名称7E7)を50機発注し、同機のローンチカスタマーとなった(後述)。


2003年に、公式の呼称を慣れ親しまれてきた「全日空」から、同社の英字社名「ALL NIPPON AIRWAYS CO., LTD」の頭文字を綴った「ANA(エイ・エヌ・エー)」へ変更・統一してイメージ転換を図り、ロゴマークも「全日空」や「All Nippon Airways」から「ANA」に変更し[注釈 7]、グループ航空会社運航機を含めて機体塗装もロゴマーク部分を変更している(一部の機材を除く)。なお、ANA(アナ)の読み方は誤りである。機体への機種名表記はこの時に消滅したが、後に導入されたボーイング787などでは機種名を表記している。グループ会社についてもほとんどが社名の「全日空」を「ANA」に変更しており、2014年2月現在、社名に「全日空」と付く企業は全日空商事、全日空商事デューティーフリーと全日空モーターサービスのみである。しかし、一般的には引き続き「全日空」と呼ばれることが多く、日本のマスメディア各社の報道などでは「全日空」の呼称が使われることが多い。また、同時期(2004年)にグループ航空会社(エアーニッポン・エアージャパン等)での運航便を「ANA」便名へ変更している。
これまでのFSC(フルサービスキャリア)としてのノウハウと実績に固執せず、後に日本の航空史に新たな時代を刻んだ。2011年8月31日にエアアジア・ジャパン株式会社を設立、2012年8月1日に就航。2013年10月26日をもってすべての便の運航を一時休止し、同年11月1日に商号を「バニラ・エア株式会社」に変更、12月20日から運航を再開した。2011年2月10日、A&F・Aviation株式会社として設立され、5月24日にPeach・Aviation株式会社に商号変更。翌年3月1日より運航を開始した。これにより、ANAグループと内に異なる2つのLCCが誕生した。しかし、成田を拠点に就航するバニラ・エア、関空を拠点に徐々に就航地を増やしていくPeachとでは、徐々に格差が生まれはじめる。LCCの費用対効果には厳しく決断を下す姿勢を推進し、この2社の経営統合を発表。Peachはこれにより国内最大規模のLCCとなり、2017年4月13日にはANAホールディングスの連結子会社となる。
2012年(平成24年)2月17日、全日本空輸は2013年(平成25年)4月1日を以て持株会社制へ移行する方針を発表した。持株会社の名称は「ANAホールディングス株式会社」、事業会社の名称は「全日本空輸株式会社」となり、会社分割の手法により持株会社となった。持株会社制移行に先立ち、2012年(平成24年)4月2日に事業の受け皿となる子会社としてANAホールディングス株式会社が設立され(事業譲り受け時に「全日本空輸株式会社」に社名変更)、持株会社移行の際に「全日本空輸株式会社」が「ANAホールディングス株式会社」に社名変更された[40][41]。
2012年(平成24年)まで使用されていた社章は、ANAマイレージクラブ入会からの総飛行距離が一定数に達した際の記念品に用いられている[42]。2012年4月ANAグループ空港ごとに空港運営会社化する。基幹空港ごとにグランドハンドリング部門と旅客サービス部門を主軸に、部門共存型の空港運営会社化を決定。関西2大空港の旅客サービスを担う「エーエヌエースカイパル」を関空と伊丹、それぞれに分割。伊丹はANAエアポートサービス(旧APS※現行のANAASとは別会社)及び関空は、新関西エアポートサービスそれぞれ統合し、ANA大阪空港及びANA関西空港が発足する。その他、ANAエアサービス福岡とANAグランドサービス福岡が統合され、ANA福岡空港株式会社発足。エアー沖縄が総代理店運営をしていた、那覇空港では、ANA沖縄空港とANAグループに編入。中部や札幌の他、首都圏空港も順次新体制へと統合が進み、ANAエアサービス東京、新東京空港事業、成田エンジニアリングサービスが統合し、ANA成田エアポートサービスが誕生。
2006年12月、ホテルの運営事業をインターコンチネンタル・ホテルズ・グループ(IHG)との合弁会社に移管。譲渡対象となる13ホテルを含む国内30ホテルの運営は引き続きIHG・ANAホテルズグループが行うと発表。翌年4月13日開いた臨時取締役会で、国内に保有する直営13ホテルの土地・建物と1関連子会社を米証券大手のモルガン・スタンレーグループに譲渡することを決めた。譲渡価格は約2813億円。ANAは本業の航空事業に経営資源を集中すると発表。
この2007年には、『エアー・トランスポート・ワールド』(ATW)誌上で「エアライン・オブ・ザ・イヤー」に初めて選ばれた。なお、日本の航空会社として選ばれたのは日本航空に次いで2社目となる。2013年4月には、イギリス・スカイトラックス社が運営する「エアライン・スター・ランキング」で日本の航空会社として初めて、アジアで6社目、世界で7社目として[43]5つ星を獲得した[44]。また、2013年7月には2006年4月に日本ユニシス(現:BIPROGY)と開発に合意していたAirCoreを採用した予約系システム(CRS)を稼働し、大手ネットワークキャリアの中では世界で初めて予約系システムを汎用機からオープン系へと移行した[45][46]。
2014年(平成26年)5月には「旅客キロ」(RPK)[47]と呼ばれる航空指標で初めてJALを上回ってANAが日本国籍航空会社のトップに立った。 これには日本航空の経営再建や、同年3月の羽田空港発着枠割当で大幅にANAに対して発着枠が割当られたことなどが影響している。ANAが日本航空を追い抜いたことは日本の航空行政の歴史上大きな意味を持つといわれている。
急拡大したANAの国際路線網は、ANAHDグループが安定的な黒字決算に寄与し、2014年(平成26年)には追加発注となる777-300ER型機6機を含む多数の新規機材発注を行うなど、同社の中長期的な成長投資を支える原動力になっている。中期的な成長原資として追加発注したB777-300ERやA320neoファミリーなどの新規機材を活用し、さらなる自社運航の国際路線強化を推進している。
2015年(平成27年)4月には初の国際線仕様B787-9型機を受領した。また新サービスブランド「Inspiration of Japan (IOJ: インスピレーション・オブ・ジャパン)」仕様に機内内装を改修する為、約4年がかりで特別改装作業を行っていたB777-300ER型機も全機改修が完了し、全ての機体に「IOJ」のロゴが塗装された他、2015年(平成27年)前半に受領した新造機と合わせて20機以上のB777-300ER型機を自社保有している。中長期的展望としては、中央アジアやアフリカ大陸などへ長距離国際線の新規開設や、2020年東京オリンピック関連の航空移動特需への対応などを重要課題として挙げた。
同年、日本の航空会社として、初の直行便として東京からベルギー/ブリュッセルへの自社運航便を就航させることを発表した。ヨーロッパの中央に位置するブリュッセルは欧州連合(EU)本部や、NATO本部が所在し、ビジネス利用などの安定需要が期待できるという。同年6月にはアメリカ合衆国ヒューストンへの直行便を新規開設した。
2017年(平成29年)2月には、日本からの経済進出事例が急増しているメキシコ/メキシコシティに自社運航便を就航させた[48]。
いずれの路線でもローンチカスタマーとして50機以上を発注しているB787ファミリー(ドリームライナー)が持つ長大な航続距離を活用する事により、直行便運航を可能としている。
2019年(令和元年)5月24日、成田-ホノルル間でエアバスA380を使用したフライングホヌ (ハワイの空 ANAブルー)が就航した。
2020年(令和2年)はCOVID-19の影響で国際線・国内線共に売上が大幅に減り、2021年3月期第1Qでの経常利益は 156,544 百万円の赤字 (前年同期は 17,038 百万円の黒字)、「親会社株主に帰属する四半期純利益」は 108,819 百万円の赤字 (同 11,418 百万円の黒字)となった[49]。同年10月27日、2021年3月期 第2四半期決算が売上高は2,918億円、営業損失は2,809億円、経常損失は2,686億円、親会社株主に帰属する四半期純損失は、繰延税金資産等を計上(約760億円)したことにより、1,884億円となり、2021年3月期の連結業績予想は、売上高7,400億円(前期比62.5%減)、営業損失5,050億円(前期営業利益 608億円)、経常損失5,000億円(前期経常利益 593億円)、親会社に帰属する当期純損失5,100億円(前期親会社に帰属する当期純利益 276億円)を見込み[50]、総額4,000億円の劣後特約付シンジケートローン契約締結を発表[51]。事業構造改革として、コスト削減の一環で2020年度中に経年機を中心に計35機退役をすすめ、導入は超大型機エアバスA380型機の3号機を2021年に受領延期、次世代大型機777-9を2023年以降受領延期それぞれの交渉がメーカーと纏まった事を発表。Peach Aviationに次ぐLCCの「第3ブランド」の運航を2022年を目処に開始すると発表した[52][53]。第3のブランドは、中距離東南アジア・豪州路線を中心に拡大が見込まれるレジャー需要獲得を担うために立ち上げる。また、エアージャパンを母体とすることで、速やかな事業立ち上げが可能であり、急激な需要動向の変化への柔軟な対応力を保持できる。ANAで使用されているボーイング787型機を活用することで低ユニットコストを実現する[54]。
同年10月20日、持続可能な航空燃料(SAF)の調達に関する戦略的提携をネステ社と締結したことを発表。10月24日以降の羽田・成田発の定期便にて利用を開始し、日本国籍航空会社として初の日本発定期便における取り組みとなった[55][56][57]。
2020年10月、1954年2月の旅客事業開始から発行してきた紙の時刻表を廃止すると発表した[18]。